東日本大震災の記憶。 2011.03.11 あの日のことを忘れない

2011年3月11日金曜日。

あの日はとても寒い一日でした。

お昼に太陽が顔をのぞかせたと思えば

吹きかけ雪が舞うという

とても不安定な天気。


午後。

僕は会社の駐車場。アスファルトに座り込み、ジャンパーを着ての作業を3人でこなしたいた。

父は自宅。

母は自転車で近所のスーパーマーケットからの帰り道。

ごく当たり前の

ごく日常を過ごしていた。

あの14時46分が来るまでは。。。




大きな揺れ。

駐車場のクルマが前後に勝手に揺れ動く。

ガラスは音を立て

電柱は激しく揺さぶられる。



2回目の大きな揺れで会社は停電。

そのまま点呼をとり

僕は帰宅。


信号は切れ

各地で渋滞とクラクションの響き。


いつもの倍の時間をかけて

自宅に戻ったのは16時頃。



自宅1階のリビングにいた父は

薄型テレビを押さえ

そのまま身動きがとれなかったという。


「家が聞いたこともない音を立てていた」

外は危険と判断

幸い倒壊を免れたため無事だった。


自転車で帰宅途中の母は

歩道で被災。

自転車を転倒してしまい

ちかくの店員さんに助けてもらったという。


大田原市

震度は6強(湯津上地区)及び6弱(大田原市街地)だった。

父のクルマのフロント部分。

2階の屋根から飛んできた瓦が当たり大きく損傷を受けた。

自宅上空を災害救助のヘリが飛び交う。

南から北へ。

自宅となりの田んぼにて屋根瓦を回収。

およそ10メートルくらい飛ばされた模様。

3月12日。

スーパー「ベイシア」大田原店の張り紙。

後ろではスタッフさんが片付けに追われていた。

付近のスーパーはみな同じような告知があった。

大田原市役所。

窓ガラスが割れ

本庁舎は立ち入りが禁止となっていた。

市役所の散乱したガラス。

大きいものは11日に片付けしたものと思われる。

自宅のパソコンのキーボード。

モニターが倒れ、当たった傷。

幸い、このキーボードがクッションとなったらしく

パソコンは壊れていなかった。


大田原市でも我が家周辺は、電気・ガス・水道が使えたため

2階と1階の屋根瓦が損壊したものの

避難することなく今日に至っている。


ただ

家屋にはひびが入り

いまだに震災は終わっていないのが現状である。


津波原発

家も家族も、そして街も

すべてが失われた被災者に比べれば

我が家は我慢できる範囲である。


悔やまれることは多々あるけれど

いまの生活に感謝をし

明日へと

つなげて進んでゆきたい。


僕は

あの日のことを

忘れはしない。